STATEMENT

ステートメント

 芸術家なんていう職業は無いと思う。人が生きている以上その人達は皆何かを 表現する芸術家だからです。芸術なんて誰にとっても遠い存在でも、難しい表現 でもないと思います。なぜかと言うと人間が造りあげたものすべてを私は芸術だ と感じるからです。

 人が生きていけば必ず何かを生産します。今朝つくったお母 さんの朝食も友だちと交わした挨拶も、みんな人間として存在するための表現方法なのです。別に美術館に飾ってある作品ばかりが芸術ではありません。自然に人が生きていく過程で芸術は本来生まれて来るのだと思います。だから無理やり 表現するものでもなくて、生活の中で自然に生まれてくるもの、または自然に表現してみるものだと思います。

 私の作品はそういった極身近な生活の時間という蓄積をテーマにして制作しています。ですから使用する素材も生活の中で生まれた身近なものを使っています。 特製の筆も限定発売の絵の具も必要ありません。誰にでも手に入るものでいい、 日常生活で自分が毎日使っている物を蓄積して出来た形こそ私が生きた証で、そして、それが私の制作なのだと思います。

 

『分身』

 私は『作品』という言葉が嫌いです。作品は『作られた品』であってはならない と思うからです。もっと純粋で自然発生的なものだと思うのです。そうして自分の身の回りのものに感銘をうけたり、影響されたりして表現するという一手段を使ううことを人間は身につけたのだと思うのです。その都度その都度、自分の表現が芸術という形に変わ っていたのです。言わば自分を現わす表現こそその人の『作品』なのだから『作品』というようりはその作家の『分身』といったほうがいいような気がします。

 そんな私の『分身』の話しを致しますと、私は自分が生きた生活と時間の集積 こそが自分と言う今の存在を造り上げていった代物だと思います。この日本に生まれて、この環境に育まれて、今の私が出来たのです。だから私の作品はそういった毎日の積み重ねでできる形のことを指します。

 私の制作条件は毎日造ことです。でもそれってすごく大変なことでは.......。と思う人もいるかも知 れませんが、大変ではありません。極普通に生活していても人は表現し続ける生き物なのですから、むしろ止めることのできないものなのかもしれません。

 ある時ふと自分やってきたことや生きてきた道を振り返った時、その蓄積を見て いろいろな思いが蘇ります。それこそが本当の自分の作品という名の『分身』なのだと思います。もちろんそれは大それた作品だとか、芸術だとかじゃなくても、 何でもない生活の中にそれはあると思うのです。

 例えば、本を一冊づつ読みそれを習慣にしているとする。読んでいる時は何か 目的を持って読むとか、何かの為にとかではなくて、ただ面白いからとか、暇 つぶしにとかで読んだ本がある。そして何年かして本棚がいっぱいになった時に 「よくこんなにたくさん読んだなぁ。」と思い自分自身に感心する時があります。 何でもない行動ではあるが、しかし、それを積み重ねるといろいろ驚かされることが沢山あります。 とはいえ、本の整理は本当に大変です。しかしながらいくら本の管理に困って も、もう、本なんか買わないし読むのも止めようなんて思わないと思うのです。ずっと 読み続けるだろうと思います。

 これが自分の生活から生み出された作品ならば、『作品』とは必ず終結するものではなくて、ずーっと作り続てて、時にはいいか げんにやっても、時は失敗してもいいから作り続けて、ひとつひとつの動作は小さくても、ある時、振り返ったら、できている大きな存在こそが今の自分の『分身』 という作品なのです。本を読み続けるがごとくこれからも自分の『分身』を造り 続けていくのだと思います。そして、それは私が死ぬまで完成しない制作なのです。

 

『未完成』

 制作には、完成は必要ないと思うのです。もし完成する時があるとすると、それは、私があの世に逝った時でしょうか…。それまで、ずっ〜と同じ制作を続けるのです。

 未完成ってあまりいいイメージではありませんが、でも、たまには、期日や納期を気にしないで、人の意見や体裁も無視した自分勝手な制作物体があったっていいと思うのです。

 未完成でも人々から親しまれるもの、愛されるものは沢山ありますよね。世界的にも有名なのはアントニ・ガウディのサグラダ・ファミリアとか、ミケランジェロのピエタとかレオナルド・ダ・ヴィンチの『賢者の崇拝』とか…。言い始めたら、キリがありませんよね。未完成っていうけど、あれってみんなカッコいい作品ですよね。音楽だってそうで、モーツァルトのレクイエムやバッハのフーガは未完成でもやたらと有名じゃないですか。だからといって未完成を肯定しているわけではないのですが、完成を急ぐあまりの駄作って一番良くないと思うのです。

 仮に、評価されなくとも、自分よがりでも、人から尊敬されなくても、軽蔑されても、かまわないから、自分の目の前に有る物体だけはインチキでもマユツバでもなく、正真正銘真実なんだと言える様な、そして、自分と共に歩めるような制作がたまにはあってもいいと思うのです。 私の制作とは『時間・経験・素材』を積み重ねて、できる形で、未完成っていうとカッコが悪いから、終わりがない永遠と成長し続ける制作ってことなんです。